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映画の感想やポエムなど

2021年現在、ホドロフスキーの『DUNE』はなぜ映像化されないのか

※世界で10,000人くらいが考えていそうなトピック

 

この秋から公開されている、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督版に感化されている。

今回の映画でDUNEを知った初心者としては、DUNEをめぐる文脈として触れてみたい作品が2つあった(リンチ版DUNE、ホドロフスキーのDUNE)。うち1つ、鬼才アレハンドロ・ホドロフスキー監督が1960年代当時『DUNE』に映像化に挑むも失敗した事件の顛末を語るドキュメンタリー、『ホドロフスキーのDUNE』(2013年)を観た。ホドロフスキー作品は、学生時代にDVDで『エル・トポ』や『ホーリーマウンテン』を観て、何一つわからなかった思い出がある。

チリ出身の無名の芝居演出家であったホドロフスキーは、ある時、映画作りに思い立ち、『エル・トポ』と『ホーリーマウンテン』で、世界中の映画オタクの間で一気に知名度があがる。そこで彼を気に入ったフランスのプロデューサーから、次は何を撮りたいかと聞かれ、ドン・キホーテでもなんでもよかったが、当時大ヒットしたSF小説『DUNE』をやりたいと回答。世界中からあらゆる才能を集め、デザインコンセプトや脚本や絵コンテが完成し、ダリやオーソン・ウェルズやミックジャガーのキャスティングにも成功し、いよいよ……というところで、フランスの映画会社だけでは支えきれず、ハリウッドにプレゼンをしに行く。

映画では、ホドロフスキーのDUNE企画が、紙きれ1枚の企画書ではなく、「あとは人を集めて、セットなどを作って、撮影開始」段階まで煮詰まっていたかが、伺える。ホドロフスキーのDUNEの問題は「12時間でも20時間でもやっていい」と豪語するホドロフスキー監督の、強すぎる芸術的な拘りだった(まして、これまで大作映画を一本も撮ったことがない人に、たとえ1.5時間の作品であったとしても監督を任せるか?と訊かれたら、常識的にNOだっただろう)。また、ジュラシックパークタイタニックアバターがない……どころかスターウォーズ1作目すら無い時代でもある。空前絶後のスケールでスペースオペラ映画を作るのは、無理があった。そのような経緯で、ホドロフスキーの『DUNE』は、どのハリウッド映画からも断られ、とん挫してしまったのだった。

映画を観て思ったのは、これは1960年代当時で映画化は限りなく無理だっただろうし、もし無理やりにも進めていたら、今の時代的には見てられない映像になったんじゃないかという、技術の進歩に関する身も蓋もない感想である。ディズニーに企画を持って行ったのは正解で、『白雪姫』や『バンビ』だけでなく『ファンタジア』のような芸術映画も作れてしまうディズニーが総力をかけてアニメーション映画としてやったなら、まだ可能性はあったかもしれない(でも、そうするとダリやオーソン・ウェルズが声優とでしか出れなくなっちゃうので、ホドロフスキーは怒るだろうな)。

そしてふと、今ドゥニ・ヴィルヌーヴ版『DUNE』が完成するほどVFX技術が発達した時代で、なぜ誰もホドロフスキーに「今度こそあなたの『DUNE』をやりましょうよ」と言わないのか、疑問に思った。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ版『DUNE』が製作されるに至った経緯は、英語圏に生れたドゥニ・ヴィルヌーヴは元から原作『DUNE』が好きで、『メッセージ』や『ブレードランナー 2049』といった大作SF映画を監督できる能力(ないしそれぞれの作品がアカデミー賞ノミネートなど実績を残したこと)を証明したうえで、満を持して、自ら製作・脚本にも回り実現した企画だったという。ここまで『DUNE』に思い入れがあるドゥニ・ヴィルヌーヴとしては、自分が監督することは半ば自明、好き勝手に作品を作るために製作まで手掛けた、ということらしい。もちろん、映画人としてホドロフスキーのことも、ホドロフスキーの『DUNE』のことも知っていただろうが、今回の映画化にあたり、ホドロフスキーの出る出番はない。ドゥニ・ヴィルヌーヴは、ドゥニ・ヴィルヌーヴの『DUNE』を作りたかったのだ。

そうすると、全く別のスポンサーがなぜホドロフスキーに声をかけないのか……という点だが、やはり最大の欠点は、ホドロフスキー監督自身の強烈な個性と、それによって「ホドロフスキー化」された『DUNE』の内容だろう。

出来てもいない作品を、ドキュメンタリー映画のなかで断片的に知った……程度だが、主人公ポールにつき、ポールの父レト・アトレイデス公爵は、原作にはない設定としてなぜか去勢されてしまっており、ポール・アトレイデスがレトの血だけで妊娠した、処女懐胎を想起させる方法で出来た子どもだという設定がある(ご丁寧に、レトの血が妻のジェシカの体内に入り、卵子に辿り着くまでを描くシーン付)。こうやって生まれた奇跡の子ども・ポールは、ホドロフスキー監督の実子をキャスティングすることが想定されていて、映画の最後でポールは死ぬも、アラキスの住民たちは意識を覚醒し「I’m Paul」と口々にする。そして、ポールの意識が宿った砂漠の惑星アラキスは緑化し(これもまたホドロフスキー版オリジナルの展開らしい)、救世主の星として宇宙をただよい色々な惑星を覚醒させ(?)、最後は消える。いわばポールに、映画で様々な人間を覚醒させたいホドロフスキーが自己投影されている。ホドロフスキーがチリ出身のユダヤ人だということにあまり拘りたくないのだが、ポールがホドロフスキーじゃないかという話は別として、ホドロフスキー版のDUNEは、露骨にキリスト教的かつ白人酋長物的になってしまっており、今日の世界の規範にあわない(ジェシカの扱いや、女性キャラクターのコスチュームデザインからも、ジェンダーも大丈夫かという感じ)。その他、レト公爵が手足を1本1本切られる拷問のなかで死ぬ展開になっている、という時点でもまた万人向けではない。ドゥニ・ヴィルヌーヴ版『DUNE』が出来るほど技術が発達した現代において、アラキスの民の視点に重点を起き、かつ主人公ポールを限りなく中性化することに気を付けたドゥニ・ヴィルヌーヴ版に対し、ホドロフスキー版とどちらを全世界向けに映画化しますかと訊かれたら(誰に??)、ドゥニ・ヴィルヌーヴ版と答えざるを得ないんだろうなと思った。

また、映画『ホドロフスキーのDUNE』でも強調されているように、当時ホドロフスキーのチームが生み出した革新的なビジョンがその後、ハリウッドの色々な映画に影響を与えた結果、1周まわってホドロフスキー版のDUNEのビジョンが、「どっかで見たことあるような絵」になってしまったという、悲しい顛末もある。ホドロフスキー版のDUNEを観てみたかった/観てみたい気持ちもありつつ、映画の神様がそれを許さなかった理由について、神様なりに理由はあったなと感じる、ドキュメンタリー映画だった。

 

ここまで、実現しなかった1960年代の映画企画に対し、現代の目線から好き勝手に批判してしまったが、現代の目線にあわないのは当然、ずるい立場からのいちゃもんで、ホドロフスキー版DUNE批判としては成立しなさそうな駄文であることをホドロフスキーに謝りたい。むしろ、今回『ホドロフスキーのDUNE』を観て、原作小説『DUNE』に対し、畏敬の念を覚えた。同時代のホドロフスキーを夢中にさせつつ、ドゥニ・ヴィルヌーヴ版『DUNE』的な、21世紀の世界にも通じる視点を既に持っていた普遍性。古典とはこういう作品を言うのだろう。

 

なお、ドゥニ・ヴィルヌーヴ版『DUNE』に対し、予告編を見たホドロフスキーは、「大変良く出来ているが衝撃が一切ない、全てが予測可能」とコメントしている(私も、映画館で予告編を観た時はそう思ったよ!)。本編を観たら、どう思ったんだろうか……?