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【ネタバレ有】なぜ、映画『ファイト・クラブ』(1999年)は面白いのか

週末に、午前十時の映画祭で、『ファイト・クラブ』を観てきた。学生時代にDVDで何回も観たが大きなスクリーンで観るのは初めてだ。休日の午前十時台にも関わらず、ほぼ満員だったのに驚いた。

ファイト・クラブ』は面白い。

21世紀で「映画好き」を自称するアラサー以上の人は、『ゴッドファーザー』は観ていないかもしれないけれど『ファイト・クラブ』は観ている。特にクリエイター職の人とかで、『ファイト・クラブ』が人気な気がする(私は一時CM関連の会社に勤めていて、同期の大体は『ファイトクラブ』が好きだったし、また手元にある「アニメーターが映画を語る本」でも「好きな映画」に『ファイト・クラブ』をあげる人は多かった)

最初に『ファイト・クラブ』を観た時は、それまでいくつか「グロい」と呼ばれる映画を観ていたとはいえ、暴力むき出しの殴り合いシーンの「本物っぷり」に感動し、血が躍った。たとえば「耳を切り取るシーン」をきちんと見せるR15映画は沢山あるが、そうした作品は日常とは全くかけ離れたファンタジーとして観れてしまう部分もある。反面『ファイト・クラブ』は、喧嘩と無縁だった不眠症のサラリーマンが、気が付けば喧嘩好きになっている……というプロセスにどこか納得&共感できてしまい、身近さが桁違いだった。

また、やはり最後について、大どんでん返し&「え、これで終わるの?!」という衝撃&ビルが爆発して崩壊するなか一瞬だけ男性器の映像がサブリミナルされる意味、を知って、「うおお!」と、びっくり感動ドリブンで興奮したりした。

 

あれから数年たち、いっぱしの「社会人」として、仕事や上司への不満を酒で解消した気になりながら、同じような明日を繰り返し……と、日々を限りなく無意味に生活しているサラリーマンになった。ちなみに父も母も会社勤めだ。代々しがないサラリーマンな家系の、しがない最新遺伝子である(「社会人」って何なんだろうか?)。

 

そうした感慨を経てもなお『ファイト・クラブ』の面白さが褪せないことに驚いた。

 

改めてインターネットを観ると、今作を「資本主義社会への鬱憤と反逆」だとか、「1999年版の『イージー・ライダー』」だとか、「(あくまで男性に焦点を当てつつ)理性(≒精神)ではどうにもならない衝動(≒身体)を描いた映画」など、色々な切り口で語る人がいて、どれが正解というのは無いと思う。また、この3点に限っても、「資本主義社会への鬱憤と反逆」を描いた映画として面白いと思うし、「1999年版の『イージー・ライダー』」としても面白いと思うし、理性ではどうにもならない衝動を描いた作品としても面白いと思う。……と、何が来ても、「ファイトクラブが面白い」という持論は覆らない気分を作ってくれる(なお、映画に何となく漂う男性主観≒女性蔑視、と取られかねない雰囲気についても、これはこれで潔く面白いと思ってしまうので、ファイトクラブの魅力は底知れない)。

 

そのうえで、今の私は、『ファイト・クラブ』の面白さは、ジャンル判定が難しいことにあるのではないか、と思っている。Yahoo!映画を観ると、『ファイト・クラブ』は「ヒューマン」と「アクション」とされており、すなわち「ヒューマンドラマ」かつ「アクション映画」ということなのだが、どちらもまぁそう言われればそうなんだけど、どちらかと言えば「ヒューマンドラマ」よりも「ポリティカルフィクション」かもしれないし、「アクション映画」よりも「バイオレンス映画」だ。そして何より、「タイラー・ダーデンは実は……」という物語内でのどんでん返しの粋を超えた、「タイラー・ダーデンとは何か」をめぐるミステリーでもある。最後の最後のサブリミナル映像は、一応は映画『ファイト・クラブ』のなかでタイラー・ダーデンは殺され、映画はめでたしめでたし……とエンディングを迎えたものの、「タイラー・ダーデンは今この映写室にいて、私たち観客を見張っている」というメッセージだ。

 

グッとくるのが、デヴィッド・フィンチャー監督自身は、本作をコメディだと語っていたという噂だ。なるほど、本作は冒頭からして「イケアまみれだが不眠症で冴えないサラリーマン」から始まり、飛行機の「安全のしおり」を指して「飛行機で緊急事態の際に酸素マスクが落ちてくるのは、酸素でハイになり運命を受け入れさせるためだ、見ろ、これが緊急事態を迎えた人間の顔か?」と言ってみたり、「脂肪吸引手術を受けた金持ち女性の脂肪を使って作った脂肪石鹸を金持ち女性に売りつける」だとか。最後もテロを阻止するために頑張る主人公は下半身パンツ一丁だし、一瞬映るのが男性器の映像だし……と、「ギャグセンスが高い」と言っていいのかよくわからないが、とにかく、笑える何かが冴えわたっている(「彼の名前はロバート・ポールセン」を連呼するところも、笑っていいだか何だか……な場面だが、やっぱり笑ってしまう)。

 

以上、『ファイト・クラブ』は『ファイト・クラブ』で、他に似た作品を例えるのが大変難しい、1つのジャンルを創出している。

単純に「グロすぎることをやってるのになぜか笑ってしまう」だけなら、皆さん大好きタランティーノ作品も同じと言っていいかもしれない。だが、ナチス時代にユダヤ人が報復する話、黒人奴隷が反撃する話、チャールズ・マンソン・ファミリーの殺人をもし止められたら……といった、「歴史if」的な方向を志向している最近のタランティーノに比べ、20年前の作品にも関わらず『ファイト・クラブ』がそれでも持つ「身近さ」は、観た後の味わいは違う。

2001年には「9.11を予見した映画」と言われ、2021年には「加速する資本主義に対しより一層『ファイト・クラブ』が必要になった」とか何とか、言われる映画だ(2030年には2030年なりの『ファイト・クラブ』評が成立しているだろう)。今もなお、飛行機の「安全のしおり」は馬鹿馬鹿しいし、離陸前のスチュワーデスの注意を誰も聞かない。だが、いつの時代であっても、タイラー・ダーデンはいつでも映写室にいて、私たちが獣医の勉強をしているか、見張っている。このメタ構造が、ジャンル判定が難しいながら『ファイト・クラブ』を観る経験からは絶対に逃れられない仕掛けになっており、本作は本当にずるいし、観た人は思わず(私のように!笑)、語りたくなる(単純に、サブリミナルが最後にあったのを見極めるという動体視力マウントを誘発しやすい)。そうやって、ただでさえ一概には語りにくい『ファイト・クラブ』は、その時代その人なりの『ファイト・クラブ』像を生む。

それ故に、観た人にとって、他のどの映画にも似ていない映画になっているのだと思う。