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【感想】ネタバレ有『大怪獣のあとしまつ』:100点中5点を期待したら、150点の怪作だった

※本記事は、『大怪獣のあとしまつ』および『シン・ゴジラ』について、結末含め、色々なことをネタバレしています。未見の方はご注意下さい。

2月4日に公開された映画『大怪獣のあとしまつ』に対する、批難がすごい。

劇場でよく、予告編を見かけていた。『シン・ゴジラ』好きとしては「怪獣を倒すのではなく、倒した後の始末に焦点を当てるのは、ちょっと面白いな……」と思いつつ、失礼ながら、主演の山田涼介さんはじめキャストに興味がなかったので、「時間があったら観ようかな」くらいに考えていた(重ねて失礼ながら、三木聡監督にも興味がなかった)。

ところが蓋をあけてみると、TwitterやFilmarksなどでボロクソに叩かれている。逆に興味が湧いてしまった。そこで、後回しになってはしまったが、ようやく拝見してきた。

 

【結論】

前評判の悪さにハードルをかなり下げて観に行ったが、『シン・ゴジラ』が東日本大地震を扱っていたとするとこちらはウィズコロナの話、内容・ビジュアルともに『シン・ゴジラ』の醜悪なパロディとなっていて、かなり興味深い作品だった(非難轟々のラストも、個人的には人間を痛烈に馬鹿にしてる感じがして、この映画のラストとして、完璧に思った)

 

【補足】

全体の方向性としては、『シン・ゴジラ』の方向性が、1つのお手本になっているような作風。政治家たちの「リアル」な描写。役に立たない政治家にかわり現場の官僚が頑張るというストーリー。何よりも、怪獣を現実の日本が直面している何かしらのトラブルに喩えるという志向。『シン・ゴジラ』は東日本大震災がテーマだったが、今作はコロナがテーマになっており、「緊急事態宣言」「新しい日常」といったワードが飛び交う。

興味深いのは、『シン・ゴジラ』は、東京駅前で凍結したゴジラとともに共生していく……という結末を迎えたが、本作の方はと言うと、原因不明ながら死んだ怪獣の死体をどう付き合うか(処理するのか保存するのか云々)……と、完全に『シン・ゴジラ』の結末の「その次」を描いている点だ。これはまさに、「怪獣のあとしまつ」に目を付けた本企画の、白眉といっていいポイントである。

 

以上のように、監督や製作会社が違えど、『シン・ゴジラ』の続編的な立ち位置となるかもしれない可能性を秘めた本作だったが、出来上がった作風は『シン・ゴジラ』と真逆どころか、1本の作品として観るに堪えないポイントが多すぎる、残念な映画ではあった(なので、皆さんから酷評が続いているのだろう)。

とにかく、観客を嘗めているとしか思えない。

劇中に登場する、現行の内閣の面々が、政治家としてだけでなく、一般的な一人の社会人として、ありえなく酷いことは、『シンゴジラ』とどこか通底している。が、今作の内閣は、下ネタはじめ全く面白くないギャグを連発し、己の保身にしか目がないクソジジィやクソババァたちの集団で、とにかく、見るに堪えない。『シン・ゴジラ』が一応「」付で「リアル」な永田町描写を目指していたことに比べると、今作における首相官邸(?)のダサさ一歩手前のSFチックなセットには、「そんなわけねーだろ!」とツッコミたくなった。廊下は異様にライトアップされているし、閣議の机の配置はおかしいし、各大臣が自分のスマホから直接会議室のスクリーンへ動画や写真をアップしているしと、「?????」ばかりである。

 

そして、「原因不明の光で倒れた大怪獣の死体を、どうするのか」というメインテーマと平行して、サブテーマ「主人公、ヒロイン、ヒロインの夫をめぐる三角関係」が走るのだが、こちらもまぁ酷い。『シン・ゴジラ』が、登場人物の過去や恋愛などを一切排して、ゴジラ戦の描写に徹していたことに比べると、「嘗めてんのか?」と思う三文オペラが展開されていく。そのうえ、主人公(帯刀 アラタ)も、ヒロイン(雨音 ユキノ)も、ヒロインの夫(雨音 正彦)も、それぞれリアリティ0かつ、近年の#MeToo運動を踏まえたうえでのジェンダー観のアップデートがまぁ見られないどころか、紋切り型で面白みのない人物達である。人物名からして、「帯刀」だの「雨音」だの嘗めてんのか??(ユキノって何??)

 

また、詳しくは割愛するが、大怪獣に関連するCGが、とにかく安っぽい。「どうしたのか」と言いたいくらい、一事が万事、安っぽい。さらに、大怪獣の死体が腐敗して出てきたガスには謎の菌類が含まれている……ということが途中で判明し、大怪獣に近づいた人間の皮膚からキノコが生えたり、全身をキノコに乗っ取られたキノコまみれの人間とか出てくるのだが、まぁビジュアルが気持ち悪い。見るに堪えない。B級とすら言いたくないような、安っぽくて気持ち悪い絵面が、延々と続いていく。

 

そのくせ、『シン・ゴジラ』が「タバ作戦」が失敗したことを転機として大きく物語が展開していったように、『大怪獣のあとしまつ』も、いっちょまえに「ダム爆破作戦」の失敗というターニングポイントを持っていたりして、『シン・ゴジラ』に似ているんだか似ていないんだか……と、頭を抱えさせれられた。

 

……ということで、『シン・ゴジラ』の醜悪なパロディとして受け取った今作だが、なぜ「150点の怪作」と思ったかというと、以上のマイナスすぎるポイントが全て、今の日本を痛烈かつ克明に描き出してたように見えたからだ。製作陣がどこまで意図していたのかはわからないが、この現実の日本こそ、醜悪で見るに堪えない場所なんだということがストレートに反映された、いわば露悪的な醜悪作品である、と受け取ってしまったのだった。

 

というか、そういう観点から今作を観ると、まさに150点の映画だろう。

 

大抵の政治家は酷い。

おじさんと呼ばれる人種のほとんどは、人品卑しいクソジジィである。

意識改革は進んでいるものの、それでも「男は一人でバイクに乗るのがかっこいい」「男は夢や野心に向かって生きているが、女性は恋愛にしか興味がないので、男たちの蚊帳の外におかれても仕方ない」といったジェンダー観が、世間一般のマジョリティを占める。

誰もが、自分の目先の保身が目的で、社会や国の未来といったものを考えない。

幾ら科学が発達して、それらしい科学的施策を打ったとしても、人類は基本的に無力で、人類には事態を解決する力はない。

世界中から、予算と才能が結集し、日々切磋琢磨が行われているハリウッドで作られた映画たちに比べ、残念ながら邦画は「オリンピック vs 草野球」みたいなハンデを背負わされている。大手広告代理店や大手芸能事務所といった既得権益が絡んだ作品になると、宮崎駿でもない限り、俗悪な作品しか生まれない(代表例:山崎貴

 

―――といった、日本の限界、人間の限界が、高密度で結晶化されたような、醜悪な映画なのだ。醜悪さの煮凝りのような、珍品オンパレードだ。

あまり使いたくない言葉なのだが、2022年の日本(や人類)を、ある観点から切り取ったレポートとして、現代アートと言ってもいいかもしれない映画だと思った。

 

そして、『大怪獣のあとしまつ』は、最後に、とんでもない結末を迎える。

もったいぶってもしょうがないのでネタバレをすると、そもそもこの大怪獣は、誰も手がつけられないほど最強で、日本で大暴れしていたのだが、ある日、謎の光に包まれ、あっけなく死んでしまう。そこから、「大怪獣の死体」との共存の日々が始まるのだが、主人公・帯刀アラタは、大怪獣を死に追いやった謎の光を偶然浴びてしまい、2年ほど行方不明になったという経歴を持っていた。

光の正体は、「ウルトラマン」的な超人ヒーローで、人類のピンチに駆け付け、大怪獣を殺したのだった。大怪獣の死体をめぐりすったもんだが繰り広げられた挙句、死体処理の不適切さによってまたもや被害が起きそうになったその時、謎の光に包まれた経験があるアラタは超人ヒーローに変身し、大怪獣の死体を大気圏外(もしかしたら宇宙の外?)にまで運ぶ。それで日本(と地球)は、平和になった。

 

序盤から、やたら「デウスエクスマキナ」という単語を強調してくる映画だったのだが、まさか、最後がミラクルメリーバッドエンド的な、「それは反則だろう……!」な結末になると思わず、アラタが「ウルトラマン」に変身して大怪獣の死体を大気圏外に持っていくまではラスト1分くらいか?、開いた口がふさがらなかった。個人的には人間を痛烈に馬鹿にしてる感じがして、この映画のラストとして、完璧に思った。

 

酷いラストだが、なぜ酷いのかというと、それは私たち自身が、酷くて醜い存在だからだ。人類が、幾らそれらしい理屈で何かを考え、行ったとしても、所詮は自然(宇宙)の御心次第。

シン・ゴジラ』は、「私は好きにした、君らも好きにしろ」がキーフレーズとなり、厭世感のある庵野監督らしさはありつつ、人間の可能性を感じさせる作品に仕上がっていた(と思った)。ところが、『大怪獣のあとしまつ』は、「人間が幾ら頑張っても、今後も何も解決しないんだよ」という絶望を、シニカルかつ唐突に突き付けて終わる。

現実に矢口蘭堂はいない。帯刀アラタもいない。いるのは、いずれはクソジジィやクソババァ候補のしょうもない人間たちばかり、待っているのは地球の破滅。もし「デウスエクスマキナ」が起きたら救われるけど、それは君たち次第だからね。

 

 

……こんなことを感じさせる映画は、見たことがない。