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【感想】ウェス・アンダーソン監督『犬が島』(2018年):たった1つの惜しいディテール

2018年公開のストップモーションアニメ。

シネコンというシステムは、まったく便利なもので、『犬が島』が公開された2018年5月~6月頃にどこで何の映画を観たのか、振りかえられる機能がついていた。

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『犬が島』は、確か日本では2018年5月25日(金)に公開されたが、その日のムービーウォッチメンのガチャで次週の課題作にあたり、それに備えて5月28日にTOHOシネマ六本木で観たんだと思う。何時の回だったかまでは記録されていないのが惜しいが、仕事帰りの、21時台の上映だったような気がする。

観終わってから、「訳がわからないが凄いものを観た」と強烈な印象が残った。「日本語、英語、日本語字幕、英語字幕が入り乱れる」「本編には全く関係がない、生きた魚を裁いて寿司を握るまでの1分弱の精密すぎるストップモーションアニメが登場する、映画史はさておきストップモーション史に残る頭がおかしい作品」とだけは覚えていた。

3年ぶりに『犬が島』を見返した。2回目という冷静さも手伝ってか、劇場で観た当時以上に頭がおかしい作品だということがひしひしわかった。『犬が島』のサントラを聞いたり、宇多丸さんの批評を聞いたりした。

 

お話自体は、「犬インフルエンザ」という病気への恐怖を逆手に取る市長が独裁を行うディストピア世界・メガ崎市のなかで、市長の養子という立場でありながら(かつ、市長の下で新たに成立したゴミ島法に従い、飼い犬・スポッツをゴミ島に追放させられた第1号飼い主)、スポッツのことを諦めることができず、ゴミ島に単独上陸してきた12歳の小林アタリ君が主人公。アタリ君の「必ずスポッツを探し出す」という情熱が、ゴミ島の犬たちやメガ崎市の人間たちに変化をもたらし、最後は独裁を終了させる……というものだ。

色々な冒険を経て、大勢のゴミ島の犬とともにメガ崎市へ帰還したアタリ君が、古の(?)小林王朝と犬との因縁にも絡む「俳句」を織り交ぜたスピーチを行ったところ、それを聞いた市長が急に改心し、独裁が終了するのだが、市長が改心する描写が雑(唐突)で、あまり納得できる感じではない。だが、この物語が描きたいのは、恐らくポエムだ。「両親を事故で失い、ただ犬だけが友になった12歳の少年が、その犬ですらも失ったなか、自分をそのような境遇に追いやった大人たちに逆らうことを決め、行動に移すこと」「行動力と利発さを兼ね備え、そこら辺の大人よりよっぽど優秀な少年が、現実社会を変えること」「犬と人間の間にある、人間同士のそれよりはよっぽど強固な絆」。

特に最後は、この映画のなかで最も感動的なシーンの1つであろう、スポッツからチーフへ「アタリ君のボディガードドッグの立場を引継ぐ」シーンが、野良という出自もあいまって最初はアタリ君への当たりを強くしていたチーフが、冒険の道中で徐々にアタリ君へ心を開き、「自分は野良である」というアイデンティティを捨ててアタリ君へ尽くすことを決めたことについて、それまでの過程を見せられてきた観客としては涙を誘われた。……だが一方で、「誰かの飼い犬になることって、そんなに大事なことなのか?」とゾッとした気持ちも少なからずあった。犬たちにとって、ある人間に仕えるということは、人間同士の「病める時も健やかなる時も」と同じかそれ以上の重さ(というよりは責任)があるような描写だし、飼い主側も飼い主側で、例えばゴミ島まで飼い犬を探しにくるアタリ君とか、飼い犬・ナツメグを忘れられず小林政権へ最初に牙をむける海外留学生トレイシーちゃんとか、とにかく、この映画のなかに出てくる犬と人との間の関係は強い。逆に言えば、「病める時も健やかなる時も」と誓いながら、いつでも離婚できる権利のある人間は、アタリ君的な立場からすれば、小林市長と同じ「大人たち」ということになるのだろう(離婚を非難しているのでは全くない)。

要は、それぞれの選択に、どこまで魂を懸けているかということだろう。映画・現実にかかわらず、「より強い意思を持つ人間が最後には勝つ」ということについては、1つ真実だと思っている。この作品世界における「犬と人間」の絆サイドは、劇中歌 ”I Won't Hurt You” の切実さを纏う。小林市長はじめ「大人たち」の敗北は最初から決まっていた。だから、クライマックスの市長の改心の雑さについては、いいかなと思った。

なので、あとは、この映画に散りばめられた、寿司作りシーンの狂気のストップモーションアニメはじめ「何でこんなこと考えた?!」という空想力や、それを具現化するためにかけられた採算度外視の労力を、楽しめばいいと思う。物語自体は王道だが、ディテールが凝らしきられた本作において、1点だけ惜しいと思うことがあった。チーフの好物だ。

 

このタイミングで、本作を初めて見てくれた人と「『犬が島』すごいよね!!」と話しているなかで、1つの質問が出てきた。「チーフが好きだと言っている、(生涯で1度だけ数日、飼い犬となった期間に提供された)『おばあさんが作ったチリ』の『チリ』って何?」

That night, an old woman, he thinks she was the grandmother, came to the shed and gave him a bowl of homemade Hibachi chili. 

私はまったく疑問に思わなかった。「アメリカで『チリ』と言えば、豆を煮たチリコンカンでしょうが」ということを、これまで観た沢山のアメリカ映画から(?)なにか自然に、教わったからだ。「chili、はいはい」と、疑問を持たなかった。

「チリコンカンのことじゃない?」「ふーん……」という会話が続いた。ところが知人が言った。「あれ、でも、メガ崎市のおばあちゃんが、そんなアメリカっぽい料理作るんだね。面白いね」

ここで、ハッとさせられた。そして、制作陣の苦労を思った。

本当は、メガ崎市の設定的に、ここはチリコンカンではなく、筑前煮や切り干し大根やひじきの煮物であるべきだ。アメリカにとってのチリコンカンが、日本における筑前煮とかのはずだった。

だけど、sushiやramenはさておき、日本食料理は余りにアメリカに知られておらず、かろうじての折衷として、chiliはchiliだけどHibachiで煮られたchili、ということにしたのである。「火鉢で煮られたチリ」。……と言われたところで、メガ崎市に住む(おそらくは)日本人のおばあちゃんが、幾ら火鉢を使っていたであろうと、その火鉢でチリを煮込むとはあんまり考えづらい(海外留学生トレイシーちゃんのホームステイ先のおばあさんが「言葉が通じない土人」然として描かれていたことからも、メガ崎市に、チリを煮込むババァがいるとはあんまり考えられないのである)。

だけど、監督ウェス・アンダーソン的には、野良犬チーフが、生涯暫定唯一の好物として、自分に対し何も気持ちがなく残飯をあげよう……と思ったおばあさんの適当な家庭料理が、実は、そういうことすら思ってくれる人がこれまでいなかったことの悲哀で、チーフはあの時のおばあちゃんのchiliが好き……という、アメリカならではの(?)料理ものさしから、chiliを選ばざるを得なかった。しかしながら、chiliはメガ崎市にない料理だ。メガ崎市要素を足す折衷案として「火鉢で煮られたチリ」と「Hibachi」を足してきたことに、この、日本語、英語、日本語字幕、英語字幕が入り乱れる、希代の映画の苦悩を勝手に感じ取り、知人の真っ当な質問に答えきれないことを、ただ1点だが、惜しい1点に感じた。

 

神は細部に宿りすぎることを知っているウェス・アンダーソンあなたにこそ、こういう疑問が生まれましたよと言って、きゃっきゃしてみたい。

もしも、日本食がもう少し英語圏にてポピュラーになることがあったら、チーフの好物は、味噌汁か、味噌汁かけごはんになると思う。味噌汁かけごはんは、英語で伝え方が難しいかもしれないから、味噌汁になるのだろうか。

That night, an old woman, he thinks she was the grandmother, came to the shed and gave him a bowl of homemade miso soup