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木漏れ日

世の中には、時間をさかのぼることができる人間がいる。

 

一見、奇異に聞こえるかもしれない。だが、逆上がりができる人間とそうじゃない人間がいるのと、同じ程度の話だ。
中学時代にクラスメイトだったAも、時間をさかのぼれる人間だった。
僕が時間をさかのぼれる人間に会ったのは、後にも先にも、Aとのことだけだ。
 
中学時代の当時の僕は、学年で唯一の他県からの転校生で、かつ、家に祖父しかいなかったことから、同級生たちから根も葉もない噂を立てられ、時には酷い仕打ちにあった。
一方のAは、地元で生まれ育った人間だったが、小学校の頃から「神童」と噂をされた頭脳と、同級生たちとどこか距離を置き続ける日頃の態度から、同じく冷ややかな扱いを受けていたが、同級生たちはどうもAには、手を出すことをためらっていたようだった。その分、鬱憤の矛先が僕に向けられていた、というわけだ。
 
Aが「さかのぼり」を披露してくれたのは、母の形見の筆箱を紛失した時のことだった。
 
その時、たまたま後ろの席だったAは、昼休みの終わりに筆箱がないことに気が付き、慌てふためいた僕を見兼ね、午後の授業中に筆記具を貸してくれただけでなく、放課後、筆箱探しに付き合ってくれた。それまで、僕はAと一度も話したことがなかったのに、だ。
Aは、学校内で、同級生たちが嫌がらせで、いかにも筆箱を隠しそうな場所を、思いつく限り挙げ、僕たちは順番に尋ねてまわった。最後の最後で焼却炉に来た時、僕は黒焦げになり、半分焼け崩れた母の筆箱を見つけたのだった。
僕は、焼却炉の前に、1時間近く立ち尽くしていたと思う。その間、Aは何も言わず、僕の側に立っていてくれた。
やがて下校のチャイムがなり、「おーいそこの2人、早く帰れ」という教員の声が聞こえた頃、僕とAはようやく、焼却炉の前を離れた。
荷物を取りに教室へ戻りながら、「やった奴、器物損壊罪で訴えられるよ。やる?」とAが言った。明るい声だった。あえて明るい口調で言ってくれたと思う。
Aの言葉を聞いた瞬間、僕の頭のなかに、転校してきてからこれまでの全てがフラッシュバックされた。
思わずその場で泣き崩れた僕に対し、Aはしばらく側にいた後、1人で教室へ戻り、2人分の荷物を持ってきた。
そして、僕が泣き止むのを待った。
 
この話は、あともう少しで終わりだ。
翌日、登校した僕が机の引き出しをあけると、母の筆箱が入っていた。
一瞬、新品か、と思った。しかし、母が使っていた当時についていた傷も、その後に僕がつけたペンの染みたちも、何もかもがそのままだった。
声が出ないままに仰天したまま、後ろを振り返ると、既に登校していたAは、いつものように澄ました顔で、岩波書店の難し気な本を読んでいた。
でも、僕と目を合わせないまま、Aはたった1回だけだが、確かに1回、力強く頷いた。
 
この一件以降、急速に同級生たちが馬鹿らしくなった僕に対し何かを感じたのか、気が付いたらいじめは終わっていた。
その後、Aと別のクラスになり、別の高校に進学した僕は、Aがそれからどういう人生を歩んだか、知るよすがが無い。
 
世の中には、時間をさかのぼることができる人間がいる。僕がそのような人間に会ったのは、後にも先にも、Aとのことだけだ。