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ネタバレ有【感想】『プロミシングヤングウーマン』

近年特に、フェミニスト目線の映画が多くなっていること自体は喜ばしく(批判してしまったがディズニー実写版『クルエラ』もその配慮が命題になっている映画ではあった)「女性が主人公で、男性に制裁をしまくる映画らしい」と聞き、予告編を見て、とても楽しみだった。

実際に観てみて、まずは監督の志がとても高いこと、脚本の完成度が高いこと(中盤、ニーナをめぐる3人の登場人物につき、3人それぞれ年齢や立場が異なるタイプで、制裁方法も変えていることがワクワクさせられた)、最後の展開も含め「どこへ行くのか」と息がつかない展開になっていることなどなど(私は全然わからなかったのだが、配役や劇伴のチョイスもとても素晴らしかったらしい by 宇多丸さん)……、「今年ベストだ!!!」となる人が多いのも、すごいわかった。実際、私の1つ隣で映画をご覧になっていた、女性の1人客が、終始号泣していた。映画館で観れてよかった。

 

1つ、惜しいなと思ってしまったのは、ニーナの映像が出てこないことや、暴力シーンをほとんど出さないなど、ガワの過激さとは裏腹に、性的・暴力的な快楽に訴えるエンターテインメント作りを徹底的に排している自律性について、監督の志の高さとして、最大に美徳に思う一方(特にニーナの映像を出さない配慮には拍手を送る)、やっぱり男性たちには、ぼっこぼこに死んでいってほしかった(そうでなければ、大出血と痛みを伴いながら、睾丸なり何なりを切り取られていってほしかった)。そういう映画はいっぱいあるのに。そういう映画、にでさえ、いっぱいあるのにと。「死に値する人間は徹底的に苦しめばよい」という「正しくなさ」こそ、地上波に乗らないメディアとしての映画の強みでしょうが。今作を痛快だと思う一方で、「そんなに正しくなくていいんだよ」と、どこか監督の肩を抱きたい気持ちになった。

また、軽い絶望はあった。男性が女性を根本的にどこか馬鹿にしていると同じように、女性もまた男性たちに対して、基本的には忖度しなければいけない存在だと、どことなく刷り込まれているのではないか。男女同権と高らかに言われているものの、女だということで舐められてきて傷つきながらも、辛うじて、自分たちなりに割り切って、頑張って、「これでいい」と思う幸せを見つける旅路に面と向かわせられていることを女性は強いられている。今さら、こんな話が、こんなに話題になって……みたいなもどかしさが悔しかった。

 

以下は個人的な好みだ。

ニーナの設定は要らないと思う。主人公キャシーは「ニーナへの愛」を持っている時点で、最初から救いがある、いわば勝者だ。彼女は、物語を持っている側の人間だ。もちろん、キャシーもキャシーで人生を狂わされ、怒りと絶望を持ってしまった悲しい人物だが、私には、その怒りや絶望すら羨ましい。多くの人には物語はない。その果てに、うだつがあがらない男が、バーで少し隙のある女性に声をかけ、どこかへ連れ込み、酒を飲ませ、スカートへ指を突っ込む。

一周回って客観的な整理に落ち着くが、1番の被害者はニーナだ。キャシーはあのようにニーナを慕っているが、実は、ニーナは幼なじみで家族ぐるみの付き合いだからキャシー一家と大学生になっても付き合ってるが……みたいな可能性もある。ニーナが何を思って、どうして死んでしまったかを、きちんと描いた方がいい気がする。もし仮に、この映画を少し変える権限が私にあるのなら、「実は主人公がニーナでした」というオチにすると思う。「レイプ被害を受けた親友のニーナがいる」という偽りのアイデンティティを作ることでしか過去を整理できず、実際にも風評被害が多すぎたせいで、整形して、新たな偽名を名乗る女……とか。どうなんだろう。本作は「側にいた友人」を主人公に置いたからこそ、万人に刺さる作品になったのは間違いないが、性的被害を受けた本人が、その後に何を考え、どう行動したかもまた、同じように語られるべき話に思った。

 

もちろん、キャシーの物語は、キャシーの物語として大変に受け取った。また、現実世界に死んだ方がいい男性ばかりなのは確かなので、本作を覚えていようと思う。

 

※本作に対して、心の中のテーマ曲

スパイク・リー『ブラック・クランズマン』で「あああ……(あああ………)」という時に流れた「血と土」(もちろん、皮肉的なネーミングでした)