メモ箱

映画の感想やポエムなど

ネタバレ有【感想】映画『ドライブ・マイ・カー』:村上春樹原作映画の難しさ

村上春樹原作映画を観るのは、『ノルウェイの森』『バーニング』に続き、人生これで3本目。ちなみに『ノルウェイの森』はベトナムのトラン・アン・ユン監督、『バーニング』は韓国のイ・チャンドン監督による映画化だ。

さすがは「世界の春樹」と言うべきか、なぜか非日本人のアジア監督による映像化が続いていたところ、満を持して濱口監督による村上春樹映画、それも短編『ドライブ・マイ・カー』を3時間の尺での作品化だという。

村上春樹は、世界の成り立ちの仕組みについて、村上春樹なりの強固な考えを持っている「ファンタジー作家」だ(非小説原稿でいうと『卵と壁』スピーチがわかりやすい)。村上春樹作品のなかでも、短編は特に、ファンタジー観をあえて「匂わせる」程度にとどめ、最小限の物語として提出してくる切れ味が醍醐味で、個人的には長編小説より短編小説の方が面白い人だという印象があった。
なので、あの『ドライブ・マイ・カー』を3時間にした、と聞いただけで不安だったが、観終わった後の感想は、賛否両論という感じだった。

 

良かったのは、ドライバー・みさき役を演じた、三浦透子さんの佇まいだ。
女優としての三浦透子さんを初めて知ったのだが、『天気の子』で「グランドエスケープ」を歌っていた人だったと後から知り、みさきと「グランドエスケープ」が上手くつながらなかったくらい、原作の「みさき」を完璧に体現していたと感じた。
また、手話や外国語が複数入り乱れる舞台というのも、今作で初めて拝見し、このような形式での演劇もあるのかと、大変驚いた。この形式だと、ほとんどの人にとっては何かしら母国語以外の言葉が出てくることになる。工夫としてはシンプルだが、「世界には、自分がまったくわからない言葉や文化に生きる人がいるのだ」という、多様性の根源のようなものを感じさせられて、素晴らしい試みだと思った。
 
映画を観てから、原作を読み返した(文庫本でも50数ページ程度なので、本当にささやかな話だ)。どうしても「原作を上手く再現しているところと、何か違和感を覚えるところがある」という見方になってしまうのが、原作ありきの映画の難しさだ。こと村上春樹作品におけば、ジャズやアメリカンポップの引用が多いことから一見「アメリカ映画っぽい雰囲気にマッチしそう」と、バタ臭い感覚から「映画にしやすいんじゃないか」とつい思ってしまいそうだが(?)、個人的には(1)文体の独特さ、(2)キャラクターが内省的な人が多い、という2点で、村上春樹作品を映像化するのは難しいなと、改めて感じた。
 
原作を再読して思ったのは、むしろ高槻こそ、西島秀俊がやったら面白かっただろう。岡田将生では役不足なように思ってしまった。また家福の役は、お亡くなりになられているが完全にビジュアル先行な勝手な独断で、たとえば志賀廣太郎さんのような人が似合うと思う。そして家福の奥さんは、もっと、大きなダリアが咲きこぼれるような、源氏物語でいう「朧月夜」みたいな派手な女性がいい。
車については、映画鑑賞中にも少し違和感を覚えたのだが、家福という人間は恐らく絶対に、赤い車は買わない。あの性格でどうやったら、赤の車を買うというのか。普段は役者として自分を出さない家福が、それでも車という本当に好きなものに対し、自分の「好き」を彼なりに表現した最大の冒険が、黄色い車だった(@原作)。でも、瀬戸内海の青に対し赤は映えるから、映画では赤いクーペへと変更になったのだろう。
 
あと、村上春樹作品の文体の独特さについては皆さんよくご存じだと思うので恐縮だが(前ネットで「村上春樹っぽく桃太郎を書いたらどうなるのか」というネタを見かけ、思わず笑ってしまった)、わかりやすい例として、『ノルウェイの森』からで例えば下記だ。
 
「君が大好きだよ、ミドリ」
「どれくらい好き?」
「春の熊くらい好きだよ」
「春の熊?」と緑がまた顔を上げた。「それ何よ、春の熊って?」
「春の野原を君が一人で歩いているとね、
向うからビロードみたいな毛なみの目のくりっとした可愛い子熊がやってくるんだ。
そして君にこう言うんだよ。『今日は、お嬢さん、僕と一緒に転がりっこしませんか』って言うんだ。
そして君と子熊で抱きあってクローバーの茂った丘の斜面をころころと転がって一日中遊ぶんだ」
 
こうした言葉遣い、現実ではありえない会話の妙が、稀有な魅力となっている作家の作品を映像化するのは、難しい。繰り返しになるが、実はそんなに映像化に向いていない作家のような気がしている。一方で、実は、もしかしたら、まだアニメなら何とかなるとも思う。「村上春樹ライトノベル」みたいな考察・指摘も多いし、世界の春樹が、ジャパンお家芸で、本気のアニメーション映画化。新海誠には頼まないけど、細田守監督が真剣に作ったら面白いのでは……と妄想する。
 
また、 村上春樹は基本的に「すべてが解決した(あるいは後々解決しうる)世界」しか描かない。村上春樹自身の脳内で完結している、完璧なファンタジー(箱庭)に興味が強いのではないかと思う。なので原作『ドライブ・マイ・カー』は、妻の死も、高槻との軋轢も全て乗り越えた家福が、それでもうっかり忘れられない心の痛みを、みさきに出会ったことで完全に成仏する、という話になる。今回の映画『ドライブ・マイ・カー』は、そこが大きく、原作と違った。わかりやすくチェーホフの舞台を引用しつつ、あくまで「世界の春樹」っぽく多国籍の役者たちをそろえた演劇作りを通じて、妻に対する未練を現在進行形で克服していこうとする家福、という読み直しには、あざとさ(わかりやすさ)というよりは、滝口監督自身の世界の捉え方が、村上春樹そのものとは全く違う哲学に支えられているということを感じる。
 
舞台が広島になった今作だが、コロナがなければ本当は、釜山が舞台だったらしい。むしろそちらの方が観たかった。日本の観客にとっては、多国籍感がより強くなったと思うし、韓国という異国での旅を通して家福が魂の安らぎを見出すという筋立ては、神話から通じる王道の話でもあるからだ。また、広島が舞台でなければ、ラストの北海道へのロードムービーはなくなり、みさきと家福の話はまた、全然違った着地になったのではないか、とも思った。
 
以上、過去見た村上春樹映画作品のなかでは1番に好きだけれど、あくまでこれは、濱口監督の作品だと思った(当たり前だけど)。
 
RADWIMPSが全面展開される最近の新海作品において、ゲスト歌手に起用されていたあの人かと、みさき役を演じた三浦透子さんが好きになった